[2021/7/17]川﨑依邦の日々「親と子」
7月17日(土)15,668歩、歩行距離13.3㎞。禁酒437日目。晴れ。
10:00 大阪CMOにA社来社。
16:00 B社。
いよいよ本格的な夏がやってきた。
公園ではセミの大合唱である。
空は真っ青、気持ちがいいほど晴れている。
梅雨明けである。
孫とアミを持って公園に行かねばならない。
セミをゲットする。
アゲハ蝶もひらひらと飛んでいる。
草むらをよく見るとバッタがいる。
晃弘社長の時は
カゴに入りきらないほどセミやバッタを取ったものである。
晃弘社長は私の横でじっと見ていただけである。
晃弘社長は虫が嫌いである。
虫が嫌いになった一因は私にある。
私は虫を捕まえると晃弘社長に「触れ。」と命令していたのである。
それが嫌だったのである。
孫は虫を見ると血が騒ぐ。
晃弘社長は虫が嫌いなのに、
ぼーっと私のそばについていた。
親子といえども性格は違っているように思う。
[2021/7/16]川﨑依邦の日々「人生は旅」
7月16日(金)18,126歩、歩行距離12.8㎞。禁酒436日目。曇りのち晴れ。
鶴橋から近鉄線に乗り三重県伊勢市へ。
11:00 A社。
車中約1時間40分。
流れゆく田園風景を見つつ向かう。
人生は旅である。
さびれた駅にも停車する。
さびれた土地でも日々必死になって生きている人がいるのである。
ふと自らの人生を振り返る。
最初の記憶は仕事をしている母の背中におんぶされていた事である。
当時、母は父と一緒に豆腐屋を営んでおり、
油揚げを揚げる仕事をしていた。
油揚げを揚げている母の背中におんぶされていた事を
記憶しているのである。
2~3歳頃の事である。
3~4歳の頃、滑り台から落ちて頭から血を流したこともある。
着ていたシャツが血で真っ赤に染まった。
その時は豆腐屋で働いていたお兄さん(従兄弟)が付き添っていた。
お兄さんにはすまないことをした。
それから、幼稚園の頃は家に帰る途中でミミズを捕まえて
一緒に手をつないでいた女の子を怖がらせ、
びっくりさせたこともある。
いろいろな事があるものである。
まさに人生は旅である。
[2021/7/15]川﨑依邦の日々「時は薬」
7月15日(木)9,228歩、歩行距離6.7㎞。禁酒435日目。雨のち晴れ、曇り。
朝5:00過ぎに大阪を出るときには激しい雨が降り、
雷も鳴り響く。
道路も水浸しで、
やむなくそのままびしょびしょになりながら歩く。
靴下も濡れるが、
そのうち乾くと思ってそのままにしておく。
10:00 A社。
「辛抱して耐えていこう。」と励ます。
15:00 B社。
訪れたときは晴れていたが、朝は激しい雨が降ったとのこと。
「明けない夜は無い。必ず朝が来る。」とこれまた励ます。
20:00過ぎに新大阪に到着すると曇り。
ふと靴下を見ると乾いていた。
時はびしょびしょの靴下も乾かしていく。
まさに時は薬である。
時は濡れた靴下をも癒してくれる。
[2021/7/14]川﨑依邦の日々「目まぐるしい天候の一日」
7月14日(水)6,835歩、歩行距離5.2㎞。禁酒434日目。晴れのち大雨、曇り。
7:20発の飛行機にて伊丹空港から宮崎空港を経由して日向市へ。
11:00 A社に到着。
昼間は快晴である。
「雨が降ってなくて良かったです。」と感想を伝える。
14:00 WEBにて銀行とミーティング。
「県外、特に大阪からの人とは対面できないルールになっています。」
とのことでオンライン面談。
宮崎はコロナの感染者は圧倒的に少ない。
それでもピリピリしている。
17:00 宮崎空港着。
帰りの飛行機は19:20発である。
ところが、空が見たこともない厚い雲に覆われ、
雷が鳴り、大雨となる。
結局、20:00頃に宮崎空港を飛び立つ。
これで今日中に大阪に帰れるとホッとする。
それにしても快晴から大雨、そして21:30頃大阪に着くと曇りである。
目まぐるしい天候の一日であった。
宮崎空港では名物のカツカレー(1,200円)を食した。
外は雷が鳴っていたが、カツカレーは美味しかった。
[2021/7/13]川﨑依邦の日々「名古屋プレジャー」
7月13日(火)18,197歩、歩行距離15.2㎞。禁酒433日目。曇りのち晴れ。
10:00 A社。
14:00 B社。
15:30 名古屋市の銀行へ。
16:30 名古屋プレジャーにてドライバーのAさんと個人面談。
シーエムオーが初めて運送業に取り組んだのは名古屋プレジャーであり、
Aさんはその時以来のメンバーである。
旧社名をプレジャーと命名したのは晃弘社長である。
その時私はチャレンジワンという社名を出したのだが、
晃弘社長の案に賛成した。
東京の偉い占いの先生にプレジャーのことを聞くと
「苦労するが、掘っていけば喜びが湧き出てくる。」
と言われたのである(占い料は10,000円であった)。
そういえば、晃弘社長と一緒にモーニングサービスを食べた
名古屋プレジャー近くの喫茶店はまだあった。
近くのサイゼリアは別の店に代わっていた。
早いもので2007年11月にスタートしてから14年目である。
名古屋プレジャーの会議室に入ると
晃弘社長が社訓の唱和をしていたことがよみがえった。
朝食は近くの吉野家によく行った。
晃弘社長はたっぷりと唐辛子をふりかけてうどんを食していた。
夜は近くの一杯飲み屋によく行った。
苦労の日々でしたが今となれば思い出である。
過ぎ去った日々は戻ってこない。
「会長、元気でやっているか?専務は元気か?
健志は頑張っているか?私のパートナーや娘はどうしているか?」
と晃弘社長の声が聞こえた気がした。
晃弘社長や健志社長と同居していた近くのマンションはまだあった。
時は流れている。
生き残った者は生き続けるしかないのである。
「晃弘社長、こちらはなんとかやっているよ。
プレジャーも潰れていないよ。」
と晃弘社長に返事した。
名古屋プレジャーは晃弘社長の匂いや息遣いが今も残っている。
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