CONSULTANT DIARY川﨑依邦の日々

2025/1/19 川﨑依邦の日々「広島の街」

1月19日(日)

本日は晴れ。
何気なくNHKの「第30回全国都道府県対抗男子駅伝」を見る。
コースは広島の街を走っていく。
ゴールは平和公園のところであった。
折り返しは宮島であった。
この街を18歳のときに出た。
いろいろなことがあった。
私の母が2000年9月27日に86歳で死去するまで
年に1~2回のペースで帰省していた。
それからは、仕事でちょくちょく広島に行っていた。
画面で見ると広島の街は大きく変わっている点(特に広島駅前)と
見慣れた風景が広がっていた。
感慨に浸って画面を見続けた。
感慨とは「この街で私は生まれたのだ」との想いである。

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| 投稿日: 2025年01月20日 | 投稿者: unityadmin

2025/1/18 川﨑依邦の日々「ifに取り囲まれている」

1月18日(土)
8時 シーエムオーの役員会議。
10時 シーエムオーの各拠点テレビ会議。
12時 大阪事務所にてA社長と面談。
14時 大阪事務所にてシーエムオースタッフと面談。
本日は晴れ。
昨日に続いて阪神淡路大震災の追悼番組を見る。
様々な追悼番組に接するたび、故・晃弘のことが思い出される。
もしも(if)あのとき、こうしていたらあんなことにならなかったのに…。
後悔の念が残る。
人生はその都度ifに取り囲まれている。

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| 投稿日: 2025年01月20日 | 投稿者: unityadmin

2025/1/17 川﨑依邦の日々「故・晃弘と共に生きる」

1月17日(金)
9時 訪問リハビリ。
11時 大阪事務所にてシーエムオースタッフと面談。
13時 大阪事務所にてZoomにてA社のミーティング。
本日は阪神淡路大震災の日から30年。
6,434人が犠牲となり、30万人以上が避難した。
テレビ各種で30年を期しての番組がある。
それを見るとまだまだ生き残った者は当然つらい。
私も8年経ったが亡き息子、晃弘(2016年2月13日突然死・34歳5ヵ月)のことが
まざまざと昨日のことのようによみがえる。
生き残った私は、息子晃弘にお詫びしたい。
「もっと生きたかったのにすまない」と晃弘に言いたい。
阪神淡路大震災で生き残った人々は、あの日のことは心に刻まれていると思う。
私も晃弘のことは、一口で言葉にできないが
心の中の晃弘と共に手を取り合っていきたい。

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| 投稿日: 2025年01月17日 | 投稿者: unityadmin

2025/1/16 川﨑依邦の日々「理不尽の死」

1月16日(木)
11時 大阪事務所でA社の面談。
13時 大阪事務所でZoomにてB社の面談。
ようやくイスラエルとハマスの停戦合意の報に接する。
1月19日からということである。
それまでの数日間(3日間)で死ぬ人もいるだろう。
死ぬ人にとっては理不尽の死である。
世の中には理不尽の死で溢れている。
もっと生きたかったはずである。

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| 投稿日: 2025年01月16日 | 投稿者: unityadmin

2025/1/15 川﨑依邦の日々「瞽女唄(ごぜうた)のこと」

1月15日(水)
10時30分 大阪事務所でシーエムオースタッフの個人面談。
11時30分 大阪事務所でA社のミーティング。
13時 大阪事務所でB社のミーティング。
本日はくもり。
朝の散歩のとき、瞽女唄が浮かぶ。
瞽女とは「鼓を打ったり三味線を弾いたりなどして、歌をうたい、門付けをする
盲目の女芸人」のことである。
最後の瞽女は、105歳で亡くなった小林ハルさん。
彼女は73歳まで現役の瞽女であった。両目が見えない。
チーム3~4人で杖をついて村々を回り人を集めて、瞽女唄を歌い、それを生業とする。
冬は雪の降りしきる田んぼ道を杖をついて歩く。
「村人に喜んでもらいたい」この一心である。
瞽女は生きるために歌う。時には屋根のないところで野宿する。
「ニワトリと一緒で瞽女は死ぬまで歌わないといけない」
生きることの凄まじさを感じる。

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| 投稿日: 2025年01月15日 | 投稿者: unityadmin