vol.56

お盆がくると、亡くなった父と母のことが思い出される。

父は1976年12月16日67歳で亡くなった。生前は人生のことについて深く語り合ったことがない。色々言われていたような気がするが、記憶に残っていない。当時私は東京で生活していて、たまたま実家に11月3日に帰省していた。11月3日とはっきり覚えているのは、その日が言葉を交わした最後の日であるからだ。ビールを酌み交わして会話した。「自分の思うような道に進め」と言われたことをはっきりと覚えている。その頃、私は広島に帰って仕事をしようかどうか、それとなく父に相談したわけである。正確にいえば「自分は長男であるが、広島に帰って仕事をする気がない。でも広島に帰ってこいと言うなら帰る」と言った。それに対して父から「好きにしろ」という答えが返ってきたわけである。当時の私の気分としては、1回くらいは父の言うことに従うつもりであったが「好きにしろ」の一言である。

母は2000年9月27日86歳で亡くなった。その日は東京で物流経営セミナーの開催日である。講師は私である。通夜に遅れて夜12時頃に辿り着いたものである。広島へ向かう新幹線の中で、生前の母のことを思い出して泣けてきたものである。私に対して母は、いついかなる時でも“叱咤激励”していた。「ガンバレ、しっかりしろ」と励ましてくれていた。喪主としての私の挨拶は、母の想い出として“叱咤激励”の日々のことを述べた。人生にはよいことばかり続かない。私にも深い挫折を経験したこともある。その時でも、「ガンバレ、しっかりしろ」の一言であった。「人生はなるようにしかならないよ。ケセラセラだよ」と、よく言っていたものだ。思えば物事に対して楽観的な母であった。

私は父と母のいわゆる死に目に会っていない。親不孝者かもしれない。しかし父と母は自分の死に目に会わなかったからといって親不孝者とは言わないだろう。それより「しっかり働くこと」、「信じた道を進むこと」と言ってくれるような気がする。本当の親孝行の道である。

vol.57

紙一重という言葉がある。わずかの差、ほんの少しという意味である。

勝敗を分けるものは紙一重である。勝つか負けるかは一見大差にみえていても、実はわずかであることがしばしばである。

経営の現場の勝敗とは黒字(利益を出すこと)か赤字(損失を出すこと)である。売上に対して10%の経常利益を出している、自己資本比率も50%である。こうした企業は、勝負に勝っている。赤字企業との差は大きくみえる。ところが紙一重なのである。売上を上げ続けようと日々どんな努力を積み重ねているか。顧客訪問の回数はどうか。アポイントする為に、どれだけ電話をかけているか。顧客ニーズをどれだけ掴んでいるか。こうした日々の努力をするかしないかは紙一重である。「やる」と決めて継続していくことがやがて大きな差となってくる。

アリとキリギリスの童話を想起する。キリギリスは、その日さえよければと毎日楽しく暮らす。やがて寒い冬が来るのに「そんなことはどうでもいい」、「今日一日楽しく暮らせばそれでいい」と備えをしない。対してアリは、せっせと働く。寒い冬に備えて食料を備蓄する。やがて冬が来る。キリギリスは落ちぶれる。物乞いにアリの所にやって来る。「助けて下さい」。アリとキリギリスの境遇の差は大きいが、心の持ち方は紙一重である。寒い冬に備えていこうとする心の持ち方がアリとキリギリスの明暗を分ける。

心は不思議である。心の持ち方によって勝負が決まる。アリは何故コツコツ働くことを学んだか。それは、心を鍛えたからである。「心田」を耕す努力である。「心田」とは心の田んぼのことである。日々続けていくことが、耕すことに繋がる。

一日一生という言葉がある。一日を一生の如く全力を尽くすということである。明日は、今日が無ければやって来ない。明日は必ずやって来る。夜の明けない朝もない。一日一生の努力=紙一重の努力が勝負の分かれ目である。

vol.58

人生に「もし」はない。「もし」あの時こうしていればと後から振り返っても遅い。時は過ぎ去っている。後悔してもあとの祭りである。

人生は不思議である。運と出会いによって人生は創られているのではあるまいか。計算し尽くすことはできない。人生のプロセスでは、予期せぬことや思いもかけないピンチに遭遇する。

そもそも、筆者がまがりなりにも経営コンサルタントとして自立できている秘密は何か。正直に言えば運としか言いようがない。大学を卒業した時は、まさか経営コンサルタントで身を立てようとは夢にも思わなかった。できたら社長になりたいとは思っていた。しかし本音は、人並みに生活できたらいい位のレベルであった。

ところが、現在は経営コンサルタントとして活動している。省みて人より特段すぐれていたり、知識量で圧倒しているわけではない。更に正直に言えば、大学を卒業して就職した時、深い考え、志を持っていたわけではない。現今の就職活動のレベルからするとお恥ずかしい。大学の就職掲示板に張り出されている会社を見て「自分でも採用してくれそうな所は何か」とパッと見て選んだものである。何者かに成りたいとは、その時は思わなかった。ただ生き抜くこと、平々凡々としていくことが筆者の願いであった。

従って一番最初に採用してくれた会社に喜んで入社したものである。入社した会社で「社長」になるのは難しいと悟った時、そこで初めて何者かになるにはどうするかと自己に問いかけた。「もし」はないけれど、あのまま会社に留まっていたらどうなっていただろうか。

確実に言えることは、経営コンサルタントにはなっていなかった。そのことが人生にとって良いかどうかはまだ分からない。

秋が深まってくると平家物語の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」が頭をよぎる。命の尽きるまで、何者かに成らんとして努力し続けることが人生というものである。運の力は努力によって掴み取ることができると信じるものである。

vol.59

人生は旅である。生まれてから死ぬまで色々なことがある。一つ一つのプロセスをしっかりと刻んでいきたい。

仕事柄、日本全国を回る。北海道から九州までである。風景の中で、根付いて生き抜いている人々に出会う。駅や田園、商店街で人々とすれ違う。「生活」や「人生」等色々と頭をよぎることがある。鞄を肩に担いて一人で旅をしていると、フーテンの寅さんになったような気がすることもある。ひとつ所に留まらず気の向くまま、寅さんは足の赴くままアチコチと旅をする。行く先々で人情に触れる。生きることの喜びや辛さを体験する。寅さんは一段落すると別の土地へと旅立つ。ひとつ所に根付かないデラシネというか、根無し草のイメージが寅さんにはある。端で見る程気楽ではあるまい。人生の孤独や寂しさが漂ってくる。それが人生というものかもしれない。

人生の姿勢で感動するのは熱意である。一生懸命に生きる姿である。困難に直面して歯を食いしばって生き抜く姿である。投げやりにならずに、やるべきことをキッチリとやり抜く姿である。たとえ失敗してもそれでいい。失敗をすることで学ぶことがある。失敗という挫折から、悔しさや辛さをバネにしてよみがえる=成功に導くこともある。人生いつも順風とは限らない。真っ直ぐに伸びている杉の木は強風、台風にぶち当たると倒れることもあるという。それに比して、竹の木は節があるのでしなやかに耐えるといわれている。節は足元を見つめたり、立ち止まったり、失敗したりのことである。節目節目で一皮むけて伸びていく。節目で大切なのは熱意である。

人生は旅である。いい天気の時もあれば、雨や風の強い日もある。いつかは晴れる。雨の止まないこともない。夜がずっと続くことはない。必ず朝が来る。一つ一つのプロセスを諦めず熱意を持って進んでいこう。“念ずれば花開く”必ずいつの日か花が咲く。

vol.60

「発心せよ」この言葉は、私の母の口癖である。過去のことをクヨクヨするのではなく、さあやろうと前へ向かっていく心を呼び起こせ=「発心せよ」の意味である。私は便利に「発心」を使っていた。過去の失敗、例えば試験の結果が悪くともクヨクヨするな、次がんばろうと、出来なかったことを棚上げして「発心」「発心」と楽天的に生きてきた。今にして思えば「発心せよ」の意味を軽く受け止めていたと悟る。母の想いは、今、ただ今が大事である。過去は取り返しがつかない。どんなにマイナスの状況、不利でも振り向くことはするな。心を強く持って、心中深く決意することが道を切り開く=「発心」である。私も人生60年生きてきてしみじみと感じる。失われた時間は戻らない。それよりも今、ただ今の時を大切にすること、生きている限り前へ向かって進むこと、「発心」である。

「捨てる神あれば拾う神あり」この言葉も母の口癖である。神に捨てられたと思って絶望するな、じっと辛抱していれば新たな神がきっと来る。「幸せと辛さは字が似ているよ。紙一重が人生よ」。母は広島出身で、1945年8月6日のピカドンの生き残りである。ピカドンのせいで体が弱く、いつも疲れやすく寝こみがちであった。私は小さい頃は、母と一緒に遊んだ思い出がない。いつも枕元でウロウロしていたような気がする。その母の口癖が今にして甦る。母も色々な悲しみや辛さを抱えていたことであろう。ピカドンで一時は、髪の毛がすべて抜け落ちる目に合ったこともある。そうした状況で「発心せよ」「捨てる神あれば拾う神あり」の言葉は、なるほど深いものがある。

そういえば、もう一つ母の言葉が甦る。「ひとつ捨てればひとつ得る。成長は色んなものを捨てていって成し遂げられる。捨てることを恐れてはならないよ」。どんな局面で発言された言葉かは、今となっては思い出せない。言葉だけが頭に残っている。

私の母は2000年9月27日永眠した。しかし、心の中で今も母は生き続けている。