vol.51

映画「おくりびと」を見た。2009年の日本アカデミー賞と本場のアカデミー賞(外国語映画賞)を受賞した作品である。心に残ったことは父と子、母と子、そして家族の繋がりである。主人公の父は6歳の時母を捨てて愛人と一緒に雲隠れしてしまった。主人公はもし父と会うことがあれば「なぐってやる」。主人公の職業は納棺を生業としている。30年振りに父死すの知らせがくる。「行きたくない」と拒絶する主人公。「行くべきだ」と勧める妻や、勤め先の女事務員、社長 ― 葛藤の末主人公は妻と一緒に行く。石文ということがある。遥か昔、言葉を持たなかった頃、人は自分の心、想いを石に託したという。主人公は6歳の時、父と石文を交わしていた。主人公は丸くて小さな石、純真で素直な想いの伝わる石である。父は四角張っている石、たくましく生きていけという想いがこもっている。主人公は30年間この石を捨てずに持っていた。納棺の仕事を父に対して行おうとしたまさにその時、固く握り締めた父の手からポロリと丸い石が転がってきた。石文は存在していた。父の忘れていた顔がよみがえってきた。

主人公の学生時代の友人は公務員である。友人の母は家業である風呂屋を営んでいる。友人は自分の母に向かって「風呂屋を辞めてマンションを建てよう」と勧める。母は「風呂に入りにくる人がいる限り続ける」といって1人で切盛りしている。風呂の湯を沸かす薪を運んでいる途中、母は死ぬ。仕事が人生である母の生き方、死に様に直面して友人は嗚咽する。「ごめんなさい、お母さん」。

自分1人で生きているのではない。生かされている。どんなに反発している父と子、母と子も心の奥底では命の繋がりがある。主人公の妻は納棺の仕事を嫌っていたが、主人公の父が死んだ時、夫の職業をキッパリと「納棺師」と告げる。主人公の父が握り締めていた丸い石は主人公の妻の大きなお腹、これから産まれてくる子にそえられる。映画のクライマックスシーンである。家族の繋がりを実感させるシーンである。

vol.52

春は別れと出会いが交差する。卒業=別れがあって入学、もしくは社会へと旅立つ。冬の寒さに別れを告げて、春へと新たなページが開く。人生は失うものがあってもすべて失う、ゼロにはならない。生きている限り次のページが開いてくる。筆者もしかり。

思い起こせば東京の大学生活に区切りをつけて、社会人の第一歩を記したときもひとつ失って、新たに得ることを実感したものである。失ったものは何か。自由な生活か?確かに寝たい時に寝て、好きなように日々を生きてきたが、社会人となるとそういうわけにもいかない。モラトリアムという言葉がある。猶予という意味である。社会に出ていかねばならないのに「学生」という身分で執行猶予=モラトリアムに安住していたような気がする。「さよならだけが人生だ」との感懐をもって、新たなページ=社会人へと進んだことを記憶している。終わったと思っても、新たな始まりがやってくるのが人生というものかもしれない。ひとつのことを捨てる、あるいは断念する、その繰り返しで成長していく。思い起こせば、捨ててこそ人は前へ進むことができる。「学生」という身分は捨てて「社会人」という立場を獲得する。絶望や悲しみは希望や喜びと紙一重かもしれない。深い絶望や悲しみに打ちひしがれていても、いつしか希望や喜びの芽が育ち花開いてくる。どしゃぶりの雨でもやまないことはない。いつしか必ず晴れてくる。人生は一本調子ではない。同じリズムばかりは続かない。一見すると平々凡々な歩みにみえて、実はそうではない。ドラマが内在している。別れと出会いの繰り返しである。波乱万丈である。

人生には節目がある。あのときこうしていればこうなったのかもしれない節目である。しかし人生には、もし(イフ)はない。なるようにしてなってきただけかもしれない。前へ向くことである。前途にこそ希望と夢がある。一歩一歩進むことである。

春を迎える度に「学生」から「社会人」へとステージをかえてきた青春が蘇る。心が前へ進もうとする限り「青春」は続く。

vol.53

「最初の一歩」ということがある。何かをスタートしようとする際の「最初の一歩」である。心の中であれもやりたい、これもやりたいと思い悩んで、フンギリがつかない。これから先の行く末を心配して躊躇する。そこで一歩を踏むために勇気を奮い起していく。

「あすなろの木」というのがある。明日こそやろうと思って、終りに何事も成し遂げられなかったことを「あすなろの木」という。成すことなく終わる。見果てぬ夢みたいなものである。

思いおこせば私自身は、何をやろうとして「最初の一歩」を踏んだのであろうか。一言でいえば、経営コンサルタントの道ということになる。ところが私の場合、色々悩んだり迷ったりすることはなかった。気が付いてみれば経営コンサルタントの道を歩んでいたことになる。途中で引き返そうとは思わなかった。正確にいえば、途中で引き返す余裕がなかった。ひたすら前へ進むことしか考えていなかった。私の基本は“生き抜く”ことにある。必死になって生き抜くことに全力を尽くすことである。「最初の一歩」から3年ぐらい経って、あるクライアントの経営者から<経営コンサルタント>として社員に紹介された。その際、「なるほど、私のような仕事をコンサルタントというのか」と自覚したわけである。それからどのような仕事をするのか、どのような役割があるのか、自分自身文献を調べたり、資格(中小企業診断士)を取得したわけである。果たして、社会に評価される仕事を続けてきただろうか。それなりに必死で活動してきたに過ぎないかもしれない。振り返れば「あすなろの木」かもしれない。いつしか世のため、人のために尽くしたいと思っても「あすなろの木」かもしれない。

私も今年は還暦を迎える。人生がぐるっと一回りしたわけである。新たに「最初の一歩」を踏むことになる。生涯現役の経営コンサルタントとしての一歩である。一方、心の中の「あすなろの木」もあるかもしれない。いずれにしても“生き抜くために前へ”がただいまの心境である。

vol.54

リスクを取らないことこそ、リスクである。危ないことや、ひょっとしてニッチもサッチもいかないことに直面するかもしれない。リスクである。そこで逃げ回ったり、グズグズしてチャンスを逃してしまうかもしれない。「ナニクソ」あるいは「やるしかない」と一歩踏み出すことが、ここぞという時、人生の一瞬として求められている。決断を迫られる一瞬である。

私は、大学を卒業して民間会社に就職した。そこで、給与計算係として社会人の一歩を踏み出した。約1,000人の社員の給与計算である。事務のセンスがあるわけでもない。そもそも、そろばんにすら触ったこともない。当時はパソコンもない。思い起こせば、35年以上も前のことである。入社してすぐさま逃げ出すわけにもいかない。ひたすらモクモクと取組んだ。何とか1年くらいで1,000人の給与計算を担当することが出来た。

慣れない給与計算で夜中の1時、2時まで机にしがみついたこともある。1年もしてようやく慣れ、そういうハードなことも無くなったものである。あの時、へこたれて会社を辞めてしまったらどうなっていたか。今にして思えば、なんとか辞めずに踏みとどまってよかったと実感する。

大学を卒業した時は、将来の希望は「社長になる」ということであった。新入社員のメッセージとして社内報に発表したものである。ところが、社長どころか給与計算係である。希望と現実の落差は大きい。「このまま単なる給与計算係で一生を終えてはならない」と社会保険労務士の勉強を始めた。資格取得のめどがついた時、私にとって人生の一瞬が訪れた。このまま会社に残るか、それとも新天地に踏み出すか。新天地とは、経営コンサルタントの道である。安定したサラリーマン生活からの決別の瞬間である。リスクに直面したわけである。34歳の時、今にして思えば、今日に連なる経営コンサルタントの道に転進した。リスクを賭けた人生の一瞬であった。

vol.55

「覚悟をもって生きているか」、時々内心の声に問われる。覚悟とは、ハラをくくること。人生において辛いこと、悲しいことがあっても逃げずに向き合うことができるか。じっくりと内心の声に耳を傾けていると「ハラを据えてやるしかない」と答える。

思えば、自分の人生で「覚悟」して臨んだことはあったであろうか。成行きに任せたりしていなかったか。人生の節目、節目での来し方を振り返る。大学入学の際、東京へ行った際はどうであったか、大志を抱いていたか。たしかに希望に燃えていたが、結局は希望通りの道は歩まなかった。両親の期待はものの見事に裏切ってしまった。青春真っ只中にあって、浮草のような東京暮らしに埋没してしまった。「覚悟」のかけらもない日々の連続であった。かろうじて卒業して就職することはできたが、将来の展望は確たるものなどなかった。振り返ればよくぞここまで生きながらえたとの想いを深くする。

ここにしてようやく覚悟する。それは生涯現役を貫くということである。言い換えれば死ぬまで働く。このまま楽をしたいとは思わない。ひたすら前へ向かって、前のめりになって人生を貫いていきたい。結局働くことを、人生の全てにする。ある人は、晩年はリゾート地で余生をのんびり海をみて暮らすのが夢という。夜は満天の星をみて大宇宙の神秘を感じたいという。私はそのような夢は持たない。またある人は、全世界をこころゆくまで旅をしたいという。世界一周が夢だという。私はそのような夢はいらない。それでは「あなたの夢は何か」と内心の声が問う。一日一日が、生涯現役の日々であり続けることが、私の夢かもしれない。

いつ死んでも悔いはないと思えるような、日々の充実を積み重ねていくこと―これが私の覚悟である。ハラを据えるということである。一歩ずつ、一歩ずつが夢に近づく道である。