vol.41

新大阪発20時30分の新幹線に乗り、東京駅に到着したのは深夜の1時30分頃、実に5時間の行程であった。4月22日のことである。原因は前を走行していた新幹線の車中から飛び降り自殺があったためである。東京駅に着いてみると、深夜というのに人でごったがえしている。すでに終電がないので、車中ホテルに宿泊する人もいる。待合室で始発を待つ人もいる。タクシー乗り場は文字通り人の大行列である。これでは順番がきて乗れるまで待っていると夜が明けてしまう。テクテク歩いて帰ることとする。あらためて歩いてみると、東京は眠らない町であることを実感させられる。コンビニ店、深夜営業のレストラン、インターネットカフェ店・・・街を歩いている人も多い。自宅についたのは2時過ぎであった。
「変化」ということがある。飛び降り自殺いうことで、いつものパターンが「変化」する。「変化」はコントロールできないことがある。予測不可能である。こうした事態に直面してどう行動するか。様々である。ある人は車中ホテル、インターネットカフェで一夜を過ごす、あるいはタクシーで帰る、テクテク歩く・・・人それぞれの事情である。人生においても予測できない変化に直面することがある。自力ではどうすることもできない事態のことである。時代の流れもその一つである。時代の変化は個人の力では抗するすべがない。変化に対してどうするかという対応力は個人の力による。冬を夏にすることはできない。冬には冬用の過ごし方がある。状況、事態に対応する力を磨いておくことである。一方では変化を創り出していく力も必要である。一本のマッチが燎原の火の如くなることもある。一波が万波となるとのたとえもある。変化を創り出していく源泉はどこにあるのか。それは自分自身の内部にある。“自分が変われば周りも変わる”自己変革のパワーによって周りを革命していくことである。「変化に対応する、時には変化を創りだす」こうした心構えが生きる上で大切である。

vol.42

「花が咲いても咲かなくても日々の営みしっかりとする」この言葉の意味は何だろうか。
花=成果と捉えると花が咲こうが咲くまいが日々の営み、やるべきことをしっかり行うということである。あるいは花が咲かなくてもクヨクヨせず、日々の営みをしっかりするということである。どちらかというと後者のニュアンスの方がしっくりする。いいことばかりは続かない。むしろ苦しいことやストレスのたまる日々の積み重ねというのが、人生というものである。待っても待っても花は咲かない、けれども努力して努力して、ひょっとしていつの日か花の咲く日もある。したがって、ひたすら黙々と日々の営みを続けていくのが人生というものであろう。
誰しも幸せになりたいと願っている。それでは幸せとは何だろうか。幸せ=楽して生きるということではない。あるいは、幸せ=巨万の大金をつかむということではあるまい。なかなか楽して生きることはできない。更に大金持ちにもなれるものではない。それでは皆不幸かというと、そんなわけはない。幸せは心の中にあると信じる。心の中に幸せを感じるかどうかである。心の中が暗く沈んでばかりいると、幸せを感じることもできない。例えば、夕日を見ていて悲しいと心沈む人もいるし、美しいと感動し涙する人もいる。心の持ち方、あり様によって差が出てくる。心の持ち方、あり様を支えているのが日々の営みのしっかり具合である。日々の営みとは何か。きちんと3度の食事をする、適切な睡眠時間を確保する。こうした生活をしっかりして、花が咲こうが咲くまいがやるべき仕事を行うことである。それは花が咲くということは、太陽の恵みや、雨(水分)、養分のおかげである。感謝すべきである。ところが花は枯れていく。それでも季節が来ると花開く。こうしたリズムの繰り返しが生きていくというものであろう。「花が咲いても咲かなくとも、日々の営みしっかりとする」こうした心構えで日々を生きていきたいと切に念じるものである。

vol.43

「楽しては勝てない」とはスポーツの世界のことばかりではない。オリンピックに出場する短距離100mの日本人選手の努力をたまたまテレビで見た。年令は36才、1/100秒の壁に挑戦している。体のバランスをよくする為に、左利きでもないのに左手で食事をしている。瞬発力をつける為に100kgのバーベルを上げるトレーニングを積んでいる。1/100秒の闘いを日々全力でかけ抜けている。「楽しては勝てない」とつくづく悟らさせる。ちょっとの油断やおごりによって一敗地にまみれる。企業経営者はここぞという時は楽してはいない。よく死ぬ思い、生か死かというけれど正に賭けている。この真剣さ、迫力、捨て身を優良な経営者はオーラの如く身に付けている。筆者は経営コンサルタントとして、間近でそうした経営者の捨て身の迫力に直面させられる。80才に近い創業経営者の企業で労働組合が結成される。2代目である55才の息子は青くなる。成すすべを知らない。団体交渉の席からも逃げていく。弁護士任せとする。ところが創業者が立ち向かっていく。年令は80才に近く、しかもガンを患っている。入院先のベットから団体交渉の席にかけつける。「できないものはできない」と労働組合の要求をはねつける。いよいよ緊迫してストをするかどうかの瀬戸際まで追い込まれる。「このままでは荷主の所に赤旗を持ってかけつけますよ」すさまじい労働組合の恫喝が襲ってくる。一歩も引かずに創業者は対応する。“至誠は天に通ずる”ついにというか、労働組合が折れてきた。ギリギリの交渉の果てである。捨て身の迫力である。創業者は云う。「人生のうちには2~3回は、こうした土壇場がきますよ。土壇場で人間は磨かれていきますよ。土壇場で底力を発揮していくのが、経営者魂というものですよ」 “身を捨ててこそ浮かぶ瀬あれ”とはよく言ったものである。身を捨てるほどの覚悟が人生を切り開くこともある。土壇場の迫力が正にそうである。ハラをわって立ち向かう覚悟があれば至誠は必ず天に通じる。経営コンサルタントとしてのここぞという経営アドバイスに生かしていくことである。すなわち“身を捨ててこそ浮かぶ瀬あれ”である。

vol.44

盆休みの目的の一つは、先祖や亡き父や母への墓参りにある。お墓の前で手を合わせることで、何を心の中に想起するか。手を合わせるということは目に見えないが、心の中で語りかけていることである。

思えば経営コンサルタントとして活動してこられたのも、両親のお陰である。この世に産まれ、今まで生きてきてこられたのは一人のみの力ではない。周りの人のサポート、生かされてきた訳である。とりわけ両親のサポートは大きい。両親は、自分の子供に期待をかけている。どの両親でも「健康に留意すること」、「自立して生活していくこと」こうした期待をかけている。それでは私の両親は、私に何を期待していたのであろうか。「金持ちになれ」とは言われたことがない。直接に「これをしないさい」とかどうとか言われたことはない。しかし故郷の広島を18歳で出て東京の大学に送り出してくれたことを思うに、「自分の力を信じて、思うようにやってみろ」ということであったのではないか。自分のやりたいと思う道をやればいいということである。ただし「途中で命を落としたりはするな」、「親より先に死ぬようなことにはなるな」との想いは、私に強く伝わっている。従って生き抜くこと、これというものがあれば全力を尽くすことが両親の期待である。果たして両親の期待に応えてきたであろうか。盆休みに墓参りをして手を合わせて、心の中で語りかける訳である。

こうした今までの生き方を省みるという姿勢は、必要である。日々の多忙の中で薄れてきていることを想起し、内省する瞬間は大切である。8月のお盆の墓参りはそうした瞬間である。人生に「もし」ということはないが、「もし」あのとき両親にこうすればよかったとかどうとか、色々頭をかすめることもある。“後悔先に立たず”とはよく言ったものである。両親が生きているときは、親孝行は何もしていないが、やはり「もっと親孝行したかったなぁ」と反省するわけである。墓参りでの両親からの無言の語りかけは、「しっかり体に気をつけて、生き抜いていけ。頑張れ」の一言である。

vol.45

経営コンサルタントの活動をスタートして2008年9月で25周年となる。思えば1983年9月に第一歩を記した。その時はまさか25周年も続くとは、それこそ夢にも思わなかった。「何とか生活できたらいい」ぐらいの初心であり、深い決意もなかった。それでも以前の会社を辞めるについては、悩んだものである。1週間位思い悩んで、夜も眠れなかった。「果たしてやっていけるか」不安で一杯であった。そもそも経営コンサルタントになるとの自覚もなかった。転職した会計事務所で担当したのが、中小企業の経営相談を担当する部門であったにすぎない。それでも必死の日々が続いた。目に見えないものに対価(報酬)を支払って頂くということが、ピンとこなかったわけである。ピンとこなかったけれど「これで生活するしかない」と追い込まれてしまった。それこそ早朝から深夜まで、必死に活動した。ある日、私のことを「川﨑経営コンサルタント」と呼ぶクライアントが現れた。その時に、初めて「なるほど、私のような職業は経営コンサルタントか」と納得したわけである。クライアントから「経営コンサルタント」と呼ばれて自覚させられた。転職して3年位経った頃である。ようやく、経営コンサルタントとはどんな職業か、自分なりに掴む契機となった。世の中にはこういう職業もあると認識したわけである。

折りしもその頃から世の中では、花形職業としてもてはやされるようになる。大卒の新卒が経営コンサルタント会社の採用に群がるようになった。一見かっこよく見えるようになった。ところが私はドロくさく、経営現場の難題に直面させられて、切羽詰った日々の連続である。「とにかく生き延びていきたい」との強い想いで乗り切ってきた。かくして1988年9月1日、経営コンサルタントとして独立した。

「あれから25年 ― 天職として人生を全うしたい」2008年9月から新たな出発が始まる。

25周年を迎え、更なる出発への決意とし「天職=経営コンサルタント」としての人生をチャレンジ魂を持って生き抜いていくことを誓うものである。