vol.26

経営コンサルタント稼業は、活動を続けていくプロセスで鍛えられる。机上での研究活動ではなく、実際の現実に直面して磨かれる。陽明学の言葉「事上練磨」である。事の上=現実で練磨される。

80歳の経営者が、自らハンドルを握って筆者を送り迎えしてくれる。月2回の経営会議での経営指導のことである。送り迎えの車中で、経営者の本音を聞かされる。

「我が社には後継者がいない。」「私はもう、先行きは長くない。」

確かに経営会議では、息子(55歳)が専務として出席する。息子は公然と社長を非難する。「社長は口出ししないで貰いたい。」ところが、息子の専務は社業に全力で立ち向かう姿勢がない。毎日出社しない。出社は週2~3回のペースである。社長の焦りは深い。1年前には癌で大病し、奇跡の生還をしたばかりである。普通ならばとっくに引退して、息子にバトンタッチするケースである。ところが社長には、生へのあくなき執念がある。こうした場合、経営コンサルタントの活動スタンスはどうなるか。

筆者のスタンスは、自然体でいくことにしている。自然体とは、企業の永続=ゴーイングコンサーン(going concern)をテーマとして、対処するということである。社長は80歳といえどやる気十分であり、息子に譲る気はない。息子は息子であって、社長に文句を付けるが、自分が社長にとって代わろうとする気迫がない。そうすると経営コンサルタントは、宗教家でも予言者でもないので、「なるようにしかならない」と自然体でいくしかない。永続をテーマとして何をすべきか、具体的に問題提起していくしかない。その場合、経営者に交代を迫ったりしない。経営者のやる気の凄さは、経営コンサルタント活動で実感しているところである。一方、そのやる気が妄執と紙一重であることも、実感している。ケースごとに回答はある。何が正しくて、何が正しくないかは一概にはわからない。

「事上練磨」が求められる所以である。

vol.27

NHKスペシャルで、ノンフィクション作家(女性)自らのガン闘病の日々を取りあげていた。10年にも及ぶガン闘病の日々である。主として肝臓ガンである。自らもノンフィクション作家としてガン患者のことを執筆して、発表している。印象に残るところは、いろいろある。くり返し、くり返しガン再発に抗する日々で「お母さん。助けて下さい。」と心から叫ぶ。神仏にすがる、ワラにもすがるというが、人間は追い詰められた時は「お母さん。助けて下さい。」と悲しそうな叫びがでてくるということだ。

医者と患者の関係についても示唆に富む。医者は医療の専門家として、最善と思われる治療方針を示す。ある医師は手術で完治するという。別の医師は放射線治療をすすめる。どちらにすべきか。決めるのは患者である。その際、決定するにあたって何が決め手となるであろうか。それは、医者への信頼である。ノンフィクション作家は素人の患者というより、プロの患者である。相談している医者は、10人以上もいる。平凡人の100倍ぐらいのガンに関する情報を持っている。決め手は信頼である。

翻って経営コンサルタントとクライアントの関係においても、しかりである。経営コンサルタントのアドバイスは如何に立派そうにみえても選択するのは、クライアントである。一時、ガンがすべて消えた際、ノンフィクション作家に対して担当の医師は、心から嬉しそうに涙を流さんばかりにする。「良かったね」。患者の想いに共感する。共感していくことで、信頼関係は育まれ強くなる。こうした臨床の実績によって、医者は自信を持ち鍛えられていく。経営コンサルタントもしかりである。

vol.28

「あなたの趣味は、何ですか。」と聞かれることがよくある。胸に手をあててみると、これといったものが浮かばない。

私は所謂、団塊世代である。漫画でいうと“あしたのジョー”を愛読したものである。「燃えて、燃えて真っ白な灰になるまで闘う。」という主人公のボクサーであるジョー(矢吹 丈)には、共感したものである。なぐられて、なぐられて、ついにはパンチドラッカーになってもリングに立ち続けて、本当に真っ白な灰の如くになってしまったジョーの姿。“あしたのジョー”は、少年マガジンに1968年から1973年まで連載された。今からおよそ40年前。にもかかわらず鮮明な印象として残っている。「ジョーの趣味は、何であったのか。」それはボクシングを闘うということか。「それにしては、淋しくかわいそうな趣味ですね。」とささやく他人の声が聞こえてくる。趣味というのは、楽しいものである。打ち込めるものである。矢吹 丈のボクシングはどうであったか。打ち込んではいたが、楽しいとはいえない。むしろ悲壮ですらある。しかし矢吹 丈には、ボクシングを闘うという人生しかなかった。

翻って私自身、胸に手をあててみる。経営コンサルタントという仕事に賭けているか。確かに日曜日も活動し続けている。単なる自己満足になってはいないか。「何が楽しいのか。」といわれても即答できない。日曜日にも活動できるということは、そうした場所を設定していただけるクライアント(経営指導先)に支えられているということである。感謝しなければならない。思えば平成19年に入って1月、2月、3月の日曜日は全てフル活動させていただいた。矢吹 丈ほどではないが(もちろん足元にも及ばないが)、闘い続けていると自己認識している。経営コンサルタント活動のなかで自己の人間性を高め、鍛えていきたいと念じている。いささか、いいよどむが「私の趣味は生き続けること、人生そのもの。」といえる生き方をしたいものだと思っている。

vol.29

経営コンサルタントとしての私の日々は、旅の途中である。旅とは、実際アチコチに行っているからである。札幌の街を歩いて、次の日は長崎を回るといった具合にアチコチ行っている。 風景は変化する。ふと「旅役者」なる言葉が頭に浮かぶ。「旅役者」は色々と日本全国を回ってアチコチで演技、芝居をしている。日常が「旅」である。私の日常も旅の中にある。一方、私にとって「旅」は人生のプロセスである。生きることがそのままつながっている。 仕事の中で、土地に根づくことの意味を知らされることがある。どっしりと生きている土地に根づくことである。土地には祭りがある。先祖の墓がある。そして訛り、方言がある。土地の人と触れ合って「それぞれ頑張って生きているなぁ」と実感する。ひるがって私は、18才で生まれ故郷を出ていった。広島から東京へと出発した。思えば、それから旅が続いている。かれこれ40年である。今となっては、帰るべき所は大阪である。故郷を捨てたのではない。心にある。

「汝の足元を深く掘れ、そこに泉あり」あなたの立っている、暮らしている、その足元を深く深く掘りなさい。そうすれば、きっとそこから泉が湧き出してくる、そんな意味である。旅の途中で、ふと思う感想である。ここで生きていくとしたら、自らの足元をしっかり掘っていこうということである。自分以外の外にはない。自らの中に泉があるということである。  私の深く掘るべき足元はどこにあるのだろうか。元気である限りアチコチ行く。このプロセス、すなわち旅そのものの中に私の足元がある。こうした人生、生き方もあっていいと思う。 望んでこうした人生になっているわけではない。気付いてみると、そうなってしっまったというのが実感である。見えざる手に導かれるようにして「今」がある。これからも旅の途中で出会いを深めて、泉を掘り当てたく願っているところである。

vol.30

『お母さん元気ですか。僕も元気です。』母へ手紙を書くとしたら、この一言しか浮かばない。実際は私の母は2000年9月27日に86才で死亡した。晩年は、病院や老人保健施設暮らしが10年位続いた。ほぼ1ヶ月に1回のペースで入所している施設へ見舞いに行った。初めはいつも『元気か?』の問いがある。次に『金はあるか?』『家族はどうか?』徐々に老いが深まり、最晩年はいわゆるボケが発生した。何回も何回もさっき話したことを繰り返す。完全ボケではないが、老衰ボケである。それでも『息子は元気か?』の問いがある。母の前に出ると、元気でなくても『心配しなくていいよ』と行動する。思えば、仕事のアレコレを詳しく話したこともない。

そもそも経営コンサルタントなる職業を、理解していたとは思えない。そんなことで仕事をして生活できるとは、夢にも母は思わなかった。母の感覚では、仕事とは汗をかく、どこかの会社に入って給料をもらうことである。母は現役で、70才位までは働いていた。子育ての期間は別として、色々と仕事をしていた。60才になって小さな食堂を始めて、70才位までやっていた。満席になれば10人程度、夜も22:00、23:00、24:00と続く。その日の流れで閉店時間が決まる。取り立てて料理を作るのが得意であったわけではない。60才になるまで、いわゆる接客商売はしていない。商売は休まないことというのが母の方針である。私の記憶でも年末に広島に帰省して、大晦日の除夜の鐘を聞きながら、母の食堂で時間を過ごしたこともある。ひたすら働くことが母の仕事の感覚である。それに比べて経営コンサルタントという職業は、母にとって不思議であったに違いない。とりたてて汗をかいているようにも見えない。人の相談に乗ってお金を貰うということが、果たして仕事になるのか。会社に勤めていなくても給料がもらえて、家族が養っていけるのか?したがって、『元気か?』『お金はあるか?』『家族はどうか?』の問いとなる。私としては『元気です。』と答えるしかない。心の中では『60才になっても起業できるか』と胸に問いながらである。